意識低い系・理系大学院生のマインツ留学体験記

化学専攻の修士2年生です。10月から約2ヶ月半、ドイツのマインツ大に留学。意識が低くても留学生活を満喫できることをお伝えできれば幸いです。

ドラッグデリバリーシステム(DDS)って簡単に言うな!という話

本日、Nanosystems Initiative MunichのErnst Wagner教授がマックスプランク研究所にいらっしゃりまして、そのご講演をお聞きするというこの上なく貴重な機会がありました。腫瘍治療を目的としたドラッグデリバリーシステム(DDS)に関して、幅広いお話をお聞きすることができました。以下、意識の低い感想文になります。

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"The Show Must Go On"

ギターが恋しい。

左手で弦を抑えて、右手で爪弾く。

ただそれだけだ。

ただそれだけなのに、恋しくてしょうがない。

べつに、レパートリーもそんなにあるわけじゃない。

正直、音感もリズム感もなにもかもが足りてない。

でもそれでも、ギターに触れていたい。

 

留学に来て失った物って、案外あるよねって思う。

当たり前のように食べていた、すき家の牛丼も。

休みの日にハンドルを握って、車を動かすことも。

何もかも、ドイツに来てなくなっていった。

 

生まれながらに飽き性なんだろうね。

ドイツに来てみて、色んなことを体験してきたけれども。

でも、もう、大学に行っても、実験をしても、

閉めるボタンがないエレベーターを見ても。

もう、当たり前のことになっちゃったんだよね。

 

日本に帰りたくない。

また実験器具を手洗いしたり。

オートサンプラーのないNMRで、何時間も測定に時間を費やしたり。

そんな手間のかかることばかりな日本に帰りたくないけど。

帰りたくないんだけれども。

ギターやドライブ、牛丼。数々の失った物を思い返すと。

僕はいったい何がどうしたいのか。

わからなくなっちゃうんだよね。

 

結局、僕は日本人なんだよね。

美味しい炊きたてのご飯。あったかい味噌汁。

これに生かされてきたんだ。

辛くないけど、モヤモヤした何かが思考という思考を覆ってるんだよね。

 

明日は月曜日。

日本にいた時は死ぬほど嫌いだった月曜日だけれども。

やるしかない。


Queen - The Show Must Go On (Official Video)

 

"Show Must Go On"

死にゆくなか、アーティストとして生きていかなければならない。

そんな悲壮感に満ちたフレディの声を聴くと、僕なんか。

僕なんか、元気だ。ちょっと不眠症なだけだ。

やるっきゃない。

ショーは始まったばかりなんだ。

 

......To be continued......?

ドイツの温泉に行ってきたという話

さて、自我とは一体何なのかという人生最大の課題をアムステルダムで発見してからというものの、主観と客観の違いに悩む日々が続きました。嘘です。留学一ヶ月間がんばったなあという疲れが出てきただけです。それにアムステルダムまで電車で片道6時間。。ちゃんと乗り換えできるかな、みたいな、意識低いところで結構頭を使ってたので、疲れるのも当たり前ですね。ということで、久々に温泉でも入るか―と思い立ちました。

そこで色々調べてみますとですね、ドイツの温泉って、なんと混浴が基本なんですって。いやーこりゃ困った。体を鍛えておけばよかったなあと謎の後悔をしながらも、いやでもね、そういうの抜きでも全然温泉入りたいし!何せ1ヶ月ずっとお湯に浸かってないし!うん。そういうのは関係ない。関係ないし、普通に温泉入りたいだけだし。

ということで、無駄にワクワクしながら、マインツの隣町・ヴィースバーデンにある温泉(混浴)に行ってきました。

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ビートルズでドイツ語を勉強!? - "Komm Gib Mir Deine Hand"

はい。

日常会話どころか挨拶もままならない初学者の足元にも及ばない何かが何言ってんだって感じなんですが、ビートルズのドイツ語曲をですね、ビール飲みながらブツブツ歌ってると、ドイツ語への理解が驚くほど深まっていってビビったんですよ。これは記事にしなければということで、ようやくソラで歌えるようになってきた"Komm Gib Mir Deine Hand"(英:I Want To Hold Your Hand)という曲について、色々書いていきたいと思います🙋

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語学の最終"笑"達点 - 外国のコメディアンで笑えるかどうか

山名「パンはパンでも、食べられないパンは?」

秋山「マジで言うます?めちゃくちゃ有名なやつですやん」

山名「えぇホンマ?」

秋山「じゃあ……敢えてこう答えますね。」

山名「敢えてぇ?」

秋山「ピーターパン!」

山名「ブー!フライ・パン!」

秋山「分かってるんすよ。あの分かってる上で敢えて答えてるんすよ」

山名「でも答えに、敢えてとか無いから」

秋山「そんなん言い出したら別にピーターパンも正解っちゃ正解すけどね」

山名「ピーターパンは、焼いたら食べれるから」

秋山「(ギョっとした表情。シュールな音楽と共に照明が落ちる)」

これは「アキナ」というお笑いコンビによるコントの一節です。今年のキングオブコントのネタですね。わたしはこれを見て死ぬほど笑い転げたわけなんですが、冷静になってみると、ある疑問が思い浮かびました。「……このコント、何がどう面白くて笑ったんだろう」と。

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文章の論理性について

ドイツのどこかにいるアホが書いた、まぬけな文章がありました。

「世界を認知するフィルター、それが意識である。視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の情報を統合することによって、我々は世界を認知する。意識とは、これら五感の統合によって作り出される認知であり、我々は意識というフィルターを用いることにより、世界に触れることができる。美しい風景を見て感動する。素敵な音楽を聴いて楽しむ。そよ風に触れて気分がいい。美味しい料理を味わい、コーヒーの香りを楽しむ。全て、意識というフィルターが介在した行為だ。」

……読んでいて頭が痛くなってきませんか

そうなんです。この文章は非常に論理性が低いです。したがって、非常に読みにくい文章になっています

なぜなら、取り上げた本文はかなり短い文章であるにもかかわらず「①世界を認知するフィルター=意識」「②五感の統合によって世界を認知する」「日頃の何気ない行動には意識というフィルターが介在している」という、3つのテーマが混在しているからです。

この3つの独立したテーマをひとつの文章にまとめる事自体が誤りなのですが、なんとかこれをまともな文章にするとしたら

  1. ①と②の間には一切つながりがない
  2. 文全体で何が言いたいのか理解できない
  3. 「例えば」「したがって」「しかし」といった、接続部分が省かれている

という3つの課題をクリアせねばなりません。here we go

1. ①と②の間には一切つながりがない……についてのアドバイス

世界を認知するフィルターが意識であることと、五感の統合によって作り出される認知が意識であることは、この文章内では実は関係が無いです。したがって、論理が飛躍している印象を受けるわけですね。

まともな文章にしたいのであれば、まずは「意識というものが五感の統合体である」ことが一番言いたいのか、それとも「意識を介在して世界を認知している」ことが一番言いたいのかをハッキリさせるべきですね。この優先順位付けができれば「①と②のどちらを主題に文章を書けば良いのか」という判断ができます。頑張って決めましょう。

2. 文全体で何が言いたいのか理解できない……についてのアドバイス

なぜこの文章にまとまりが感じられないのかというと、文頭と文末で言いたいことが変わっているからです。「世界を認知するフィルターが意識である」という一文目に対して、文末部分では「日常的な行動には全て意識が介在している」と、一体何が言いたいのか意味がわからない、的外れな文章構成になっています。

まともな文章にしたいのであれば、まずは「意識というものが五感の統合体である」ことが一番言いたいのか、それとも「日常的な行動には全て意識が介在している」ことが一番言いたいのかをハッキリさせるべきですね。これができれば、文頭と文末で「最も言いたいこと」を揃えることができ、より論理的な文章になります。頑張って決めましょう。

3. 「例えば」「しかし」「したがって」といった、接続部分が省かれている……についてのアドバイス

この文章を書いた人はポエムが好きなのでしょうか。接続部分が尽く省かれているため、文章の論理構造が分かりにくいです。例えば、文中にて「美しい景色を見る」「料理を味わう」「コーヒーの香りを楽しむ」といった「意識が介在する行為」が例示されていますが、残念ながらその文頭に「例えば」という接続詞がありません。したがって、論理性に欠けている文章、かといってポエムとしても低レベルな文章に仕上がっているわけです。

まともな文章にしたいのであれば、まずは接続詞について勉強しましょう上記の1. および2. では「論理構造をはっきりさせる」ことを中心にアドバイスしてきましたが、本項目に関しては文章の論理構造以前の問題ですね。これができれば、色んな接続詞についての語彙が増え、文章の論理構造をより豊かにすることができます。頑張って接続詞についての勉強をしましょう。

 

飽きてきたのでこの辺で終わります。「まともな文章を書くには、なかなかエネルギーが必要になる」ということでした。他にも無限にケチをつけることができるのですが、ドイツのどこかにいる彼が可哀想なので、まあこの辺で勘弁してあげましょう。ホッホッホッホ😭

自我とは何か

世界を認知するフィルター、それが意識である。視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の情報を統合することによって、我々は世界を認知する。意識とは、これら五感の統合によって作り出される認知であり、我々は意識というフィルターを用いることにより、世界に触れることができる。美しい風景を見て感動する。素敵な音楽を聴いて楽しむ。そよ風に触れて気分がいい。美味しい料理を味わい、コーヒーの香りを楽しむ。全て、意識というフィルターが介在した行為だ。

このように「意識とはあくまでフィルターである」と考えると、様々な疑問が生じる。一体どこにいる誰が、美しい風景や素敵な音楽を楽しんでいるのだろうか。フィルターの向こう側には、一体何があるのだろうか。意識の最果てに、これら五感というフィルターを通して世界を楽しむ「自我」がいるのだろうか。その自我とは、いったいどこに、どのような姿をして、何を思っているのだろうか。

言い換えると「わたし」の体における「主観」の正体が一体何なのかが分からないのである。景色はそこにある。料理もそこにある。味蕾や網膜から受けた刺激が複雑な神経伝達系を通して、意識として浮かび上がる。ここまではいい。では一体誰が、得られた意識に対して「美しい」「美味しい」といった「主観」的な評価を下しているのだろうか。

……自分の体や精神といったことがらに関して、極めて無関心な態度で生きてきたのだなと実感させられる。この文章を書いているのは「わたし」に違いないが、一体「わたし」とは、複雑な意識の統合体そのものであるのか、それとも複雑な意識を統合している「自我」なる概念そのものであるのか、それとも別の何かがあるのか、何もかもが分からない。

考えるべきことは気が遠くなるほどある。そして、まとまりのない意味不明な文章である。あー実験するか